平成27年8月14日のおける内閣総理大臣談話を読んだ。 まず最初に、どんな主語が用いられているか、チェックしてみた。なるべく正確にと思って2回繰り返した結果は以下の通りだ。(正確さに欠けるが、傾向は正しいと考えている。)
主語 回数
私たちは 8
日本は 5
我が国は 6
日本人は 1
歴代内閣の立場は 1
私は 0
ここで複数形の主語が圧倒的に多いことが文体上の 顕著な特徴である。ほとんど全て複数形で述べられている。 他方、「私は」という、1人称単数の主語は全く使用されていない。 渋々入れたの主語は、「歴代内閣の立場」である。 「私は」という主語は一度も使われていないことが、説得力を減じている原因の一つである。他人事のように聞こえてしまうからだ。
評価すべきことを見つけようとして読むと、その冒頭部分で 「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。」とあることだ。
歴史を100年単位で考える視点があることは、重要ですばらしいと思う。日清戦争、日露戦争そして第2次大戦へと向かう結果になったのは、日本が近代化に遅れて一気に列強に肩を並べようという焦りが元からあったのだろう。これを明治時代に切り取って、楽観的に描いたのが司馬遼太郎の「坂の上の雲」である。
安倍首相はきっと彼自身が言う「未来志向」的なものにしたかったに違いない。彼自身が言いたかったことで言えたことは、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」ということだけではないだろうか。しかし、これも勝手な言い分と特にアジア諸国からはとらえるだろう。
彼が思ったような談話ができなかった理由は、おそらく彼の周りの人々を意見を押し切るだけのパワーが彼になかったためだろう。その結果、不本意ながら、官僚の作文を大量に入れざるを得なかった。
しかし、この状況は評価できると私は思う。安倍首相の思惑がどうであれ、その暴走に歯止めをかけるパワーが組織として存在するということを意味しているからだ。そうした力が残っている間は、戦争へ向かうリスクが減少する。安倍首相自身が、短慮で、視野が狭く、そのうえ歴視認識が偏狭であったとしても、そういった欠点を集団で補うことができれば、政権として不安を残しながら任せることができると、私は考える。