漱石全集に収められている「談話」というのはどんなものか。雑誌の記者か編集者が漱石から聞き出したことをその記者の責任で文章にしたものだ。文章にした後、漱石自身が校正したものと、そのまま文字になったものがあるようだ。
明治39年9月10日の談話に、「現代読書法」という表題がついた談話がある。英語の学習法が書かれている。かなり有名らしい。僕も、新書版の「漱石全集」を取り出して読んでみた。新書版は老眼には読みにくいが、持ち運びとベッドの上で読むに適している。
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「英語を修むる青年は、或程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英語を澤山と読むがよい。少し解らない節があって、其処は飛ばして読んでいっても、ドシドシと読んでいくと、終には解るようになる。また、前後関係でも了解せられる。それでもわからないのは、めったに出ない文字である。要するに、英語を学ぶものは日本人がちょうど国語を学ぶような状態に自然的慣習によってやるがよい。
即ち、幾遍となく繰り返し繰り返しするがよい。ちと極端な話のようだが、これも自然の方法であるから、手あたりしだいに読んでいくがよかろう。かの難句集なども読んで機械的に暗唱するのはまずい。ことにあのようなものの中から試験問題などを出すというのはいよいよつまらない話である。なぜならば、難句集など一般の学力を鑑定することはできない。学生の綱渡りができるかいなやを見るくらいなもので、学生も要するにきわどい綱渡りはできても地面の上が歩けなくてはしかたのない話ではないか。 難句集というものは一方に偏して、いわば軽わざのけいこである。試験官などが時間の節約上、且つは気のきいたものを出したいというのであんなものを出すのは、ややもすると弊害を起こすのであるから、かようなもののみ出すのはよろしくない。」 (文責在記者) (明治三十九年九月十日)
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「少し英語を修めたら、その後は辞書なしでどんどん読書せよ」という主張はよく分かる。難しいのは、その「少し」とはどれくらいの英語力かということではないだろうか。各ページにいくつも知らない単語が出てきて、辞書なしでは意味が解らない状況では、ドシドシ英語の文章を読む乱読へ進めない。 ズーと辞書に頼り、時間がかかりすぎる状況から脱出できないという気がする。これでは、読書の楽しみも味わえない。このレベルを 卒業することが肝要だ。