体罰の問題について日本のスポーツ界は混乱している。体罰の問題の根底には、スポーツ指導の際に暴力が連鎖することが問題であることはあきらかである。私はプロ野球巨人軍の荒川氏の指導法についての新聞記事をかって読んだことがある。この記事において、王貞治を指導した荒川氏が自らは殴られるなど暴力を受けて指導されたが、川上哲治監督の指導法を見て、彼の暴力抜きの毅然とした姿勢を学び、それを教え子に伝えたとある。荒川氏はまた、「教える」事の本質は「自分を鍛え直す」ことだと指摘している。
荒川氏の指導はまさに、指導における「暴力連鎖」を完全に断ち切り、一切の暴力抜きの指導者となった経緯が紹介されている。川上氏の指導法に感銘を受けて体罰抜きの姿勢を受け継いだことが、暴力の連鎖を断ち切ることに成功した大きな原動力であった。 また、この記事において、フランスの柔道指導者べネット氏が、日本の指導者の力量不足、すなわち努力不足を主張していることは傾聴に値する。暴力を受けて育った指導者がまた暴力を繰り返す。この暴力の連鎖を断ち切るためにあらゆる努力が必要なことが強調されているのだ。 指導者が怠慢では指導者失格である。私は、ここでも日本の指導者の偏狭さを感じる。指導者は世界的な視野を持ち、世界のあらゆる指導者から指導法をどん欲に学び、「自らを鍛えること」が重要なのだ。武道をはじめとする競技の指導法においても「日本のガラパゴス性」がきわめて大きいと言わざるを得ない。「ガラパゴス性」とは、島国根性的な偏狭さである。指導者は、偏狭と怠慢に堕するのではなく、指導者自らが世界に目を広げ、広く世界から学び、世界的に通用する指導法を体得する為にあらゆる努力を払うことが大切だと考えている。