いじめと体罰は、同時に論じられることが少なくない。いじめや体罰の問題は、人間の本性に根付いた問題であるから、完全になくすことは容易ではない。ほとんど不可能と考える人も少なくない。問題の所在がどこにあるかは明らかである。いじめと体罰はどちらも、何がいじめか、どこからが体罰かの境界が明確でないことが問題を難しくしているのだ。この点に共通の問題があり、解決が難しい原因である。
実際、法律の解釈を考えると、憲法の解釈を変更することが今も問題とされているように、解釈には大きな幅があり、難しい問題を惹起することは当然予想されることと思われる。このことは憲法第9条のような重要な条文解釈が常に問題となる。もっと明確な場合で考える。知的所有権法の一つである特許法と実用新案法で考えてみよう。特許法においては、「発明とは自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のものをいう」とあり、実用新案法では、考案を定義するとき「高度」の文字がないところだけが異なっている。どこからが「高度」といえるかどうかは解釈に任されている。数学の「集合」のように明確に定義することは不可能である。創作の高度性については、それぞれの人の印象に頼らざるを得ない。憲法解釈の幅がどこまで広がるかを考えると、日本が「法治国家」であることにさえ疑問が生ずる。
上記の通り、いじめについて考えると、何がいじめかその境界が明確になっていないことが問題である。実際、「からかう」といったレベルは許されるかどうか、また「いじる」という表現があり、「人をいじって笑いをとる」とか、「彼はいじりやすい男だ」などとしばしば言われる。これは、許されるだろうか。この程度のいじりはいじめではないとして、いじられる側が慣れて耐える力を持つべきだという考えも当然あるだろう。
しかし、この「いじり」や「からかい」が限度を超えて陰惨ないじめに発展することは当然想定すべきである。体罰についても、同様で教育的な観点から、細い鞭でおしりにたたくなどの罰を加えることは、許されるべきだという意見もあるだろう。実際、その限界を厳しく守ることができれば、問題はないかもしれない。しかし、その「矩をこえない」ことが容易ではないことを前提とすべきである。また、許される範囲と許されない領域の境界を明確に表すことができない以上、すべての「からかい」や「いじり」もいじめと考えるべきだと私は考える。どんな社会や組織においては、「スケープゴート」は必要悪として存在するから、なくすことは原則的に不可能と説明する人も少なくない。しかし、スケープゴートにされた人がどう受け取るかは、全く予想がつかない。結局、いじめも体罰も「許される」程度があるという考えは、無理が生じ、破綻する。結局、一切の「いじり」やきわめて軽度の体罰も許されないと考えるのが妥当だと私は考える。ただし、以上は第三者やプロの教師の場合であって、子供の教育権をもつ親の場合は、程度の問題であるが、少々別に考えることができるだろうと思っている。