いま、漱石の「明暗」と、阿部次郎の「三太郎の日記」を同時に読んでいる。三太郎日記はぼくが高校生になった頃読んだ。日焼けして茶色になった大判の角川文庫を本棚から取り出し再び開いてみた。ぼくが高校生になった頃、三太郎の日記は必読の書とされていたように思う。
「自己の否定は自己の肯定を意味する」という「年少の諸友の前に」と題されたエッセイは、50年間ぼくの心の中に生き続け、今でも耳の奥で鳴り続けている。 もう一度、この部分を少し引用しておきたい。
「自己の肯定は人生の否定を意味する。自己の肯定は往々にして人生の否定を意味する。何らかの意味に於いて自己の否定を意味せざる人生の肯定はあり得ない。少なくとも私の世界に於いてはあり得ない。私の見る処では、之が世界と人生と自己との組織である。 私の見る処では古今東西の優れたる哲学と宗教とは、凡て悉く自己の否定によって人生を肯定することを教へている。一本調子な肯定の歌は唯人生を知らぬ者の夢にのみ響いて来る単調な調べである。」
三太郎の日記のこの部分の主張は理解できる。しかし、教師として多くの生徒を見ていると、むしろ、とにかく自信を持たせることが先決だと思われる。そんな生徒が多いのだ。生徒を褒めて自己肯定感を持たせることが先決で、「自己否定」はその後で十分だと思われる。阿部次郎がいう「自己の肯定が人生の否定を意味する」という理屈は理解できるが、現実はそれどころではない。とりあえず、自己肯定感を持たせ自信をつけさせて、育てることが先決で重要だと思われる。自己の否定はその後で考えれば良いことであろう。