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「歴史認識」はどうして色々分かれるの?

「歴史認識」はどうして色々分かれるの?

以前、「原発事故による死者はいない」と発言した政治家がいた。

 私は、歴史認識がどうして種々に分かれ、自然科学の問題のようにお互いに理解し合うことが難しいのかについてかなり長い間考え続けてきた。特に日本における歴史認識の中には、アジアの国々の中に全く浮いてしまって、「ガラパゴス歴史認識」としか言えないような歴史の認識を信じている人が多いが、その理由が分からなかった。また、どうしてそのような歴史認識を持つに至るのか、歴史認識を持つに至る経緯も分からなくて、考え続けてきた。

 この「原発事故による死者はいない」という認識をきいてひょっとしたらこの認識を自分にとって好都合と思う一群の人がいて、何年かまたは何十年か言い続ければ、一つの歴史認識になるのではないかと考えた。何か、ヒントを得たように感じたのだ。 こうして、歴史に対する認識すなわち意見が多くの人に喧伝されていけば、何年か後にはその認識を盲目的に信じる人が増えて、その結果、多くの人により支持される「歴史認識」の一つとしての地位を獲得するのではないか。  盲目的に信奉する人に加えて、自分の立場の都合からあえて、嘘をついて歴史を語る人もいるかも知れないとも考えた。

 原発マネーに群がり、原発推進に血道をあげてきた人々には、地域住民の辛苦は何も理解していないのではないか。また、これまで数十年にわたる原発労働者が受けた多くの災害や被災が何も見えていないのではないだろうか。

 依然として、「歴史認識」は私にとっては最も分かりにくい話だ。勝てば官軍的に、後世の勝利者が自分の都合の良いように歴史を歪曲させることも確かにあるだろう。また、自分の都合の悪いことは、なかったことまたは軽微なこととして済ませようとすることも考えられる。しかし、そんな簡単なことではないようだから始末が悪いし、分かりにくいのだ。

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2013年07月06日 21:47に投稿されたエントリーのページです。

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