生徒に注意をするとき、「なんで私だけ注意するの」「ぼくだけじゃないよ」「みんなやってるよ」という反応が典型的で極めて多い。例えば、生徒の私語を注意すると、私語をしているのはぼくだけじゃない。○○君が一番うるさいなどという。 これは、主に小中学生の典型的な反応である。しかし、反応としては一時的なものと言える。実際、高校生くらいになると、「みんな」とは言わなくなる。「ぼくらもやったけど、キミ達も同じだ」とは気恥ずかしくて徐々に言えなくなるのだ。
ところが、この小学生的な反応を政治家になってからされる政治家がいるから、驚きだ。 「戦争とはそんなものだ。戦時中はぼくらも慰安婦を必要としたが,君らも同じじゃないか。」といった発言は、高校生になると自然としなくなる。善悪や倫理観を相対的ではなく、ある程度絶対的に考えるからだろう。 とくに、「みんなやっている」とか「みんな持っている」というのは、幼児的なレトリックである。「ゲーム機はみんな持っているからぼくにも買ってほしい」などだ。 「みんな」という単語は、ほとんど死語として葬っていくより仕方がないと思っている。
政治家の「ボクだけじゃない。キミもやったじゃないか」という発言は、自身の見識のなさか、発想の幼児性を示すものに過ぎない。政治家は、将来を作り上げるための高邁な思想を持っていることが期待されると思っていたが、政治家ほど、誰でも出来る職業はないのだろうか。