【岐阜県瑞浪市で2006年、いじめを苦に自殺したとされる市立中学2年の女子生徒=当時(14)=の両親が、遺書に名前が記されていた元同級生4人と保護者らに損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁は19日、訴えを退けた一審岐阜地裁判決を支持、両親側の控訴を棄却した。 渡辺修明裁判長は「遺書にはどのような行為でどのような精神的苦痛を受けたのか、具体的事実に関する記載がない」と指摘。学校側がいじめを認めたとする両親の主張について「教育界では本人が身体的、精神的に苦痛を感じていればいじめと見なされるが、それが直ちに民法上の不法行為に該当するとは言えない」と述べた。】
.自殺した生徒の保護者は民法と裁判所の判断に大きな壁を感じただろう。そして、本当にむなしく悲しい思いをされただろうと想像した。いじめを受けた本人は、いじめ体験を思い出したくないに違いない。いじめを記録するということは、もう一度いじめを追体験することを意味する。そんなことは絶対したくないだろう。だから普通は書いておかない。
この裁判は、一つの教訓を残す。いじめを受けたら、いつどんなときに誰から何をされたか、どのような行為をされ、自分はどんな精神的苦痛を受けたか綿密に記録を取っておく必要があるということだ。難しいことだが、こうした記録がない限り、被害者側から訴訟を提起しても無駄だということになる。私は、この敗訴した保護者に同情を禁じ得ない。