芭蕉が、約5か月に及ぶ東北への行脚を終えその結びの地、大垣に着いたのは元禄2年8月24日か25日である。そして、再び伊勢を目指して大垣から船で出立するのが9月6日のことだそうだ。腹痛のため北陸から一足先に帰っていた随行者の曽良も大垣まで来て出迎えた。季節はほぼ今頃に当たる。現在は、船など浮かびそうもない小さな川になってしまっているが、江戸時代はここから船がでて揖斐川を下り、桑名まで船旅が普通だったと聞いても現在の大垣を見る限り想像しがたい。その思いは、京都の高瀬川も同じだ。ほとんど水がない。 その芭蕉がなくなったのは51歳のときだ。まさに人生50年の時代だった。その年を私はずいぶん前に超えたしまった。私は40代まで、漱石が亡くなる49歳まで後何年あるかといつも頭で計算して暮らしていた。
しかし、私にはまだ追いかける夢がある。江戸時代なら考えられないことだろうが、まだ夢を追いかけている。数年前家の裏に、植物の芭蕉を植えたが、あまりに生命力が強く、どんどん大きくなる。新たな木が数本になり、狭い裏庭が芭蕉に占拠されそうになった。バナナの実が付いても大きくなる前に冬になってしまうから、実は大きくならない。邪魔になったので、1本を残し切ってしまった。芭蕉庵の芭蕉は、芭蕉庵を飲み込むほど増えなかったのだろうか。いま、「奥の細道」を少しずつ読んでいる。