最近、起こったいくつかの小さな事件から、私が今強く感じていることがある。しかし、このことについては具体的には書けない。抽象的な表現にとどまらざるを得ない。
「汝自らを知れ」は、ソクラテスの行動上の標語であるが、自分自身を知ることは誰にとってもむずかしいことである。社会人として、職業人としてまたは地域における生活者として責任ある立場をしめるためには、自分を常に成長させていかなければならないが、そのためにまず自分を知ることが先決となる。自分を理解するための最も有効な方法は、他者の意見を聞くことなのだが、全く聞く耳を持たず反省することができない人は、その機能が働かない。自分のことが全く分かっていない上、他者の意見を聞けない人は、こどもにもいるし、大人にもいる。一言で言えばコミュニケーションが成立しないのだ。
もう少し具体的に言えば、子どもの場合は親も全く同じ傾向を持っていることが多いようだ。被害妄想と言っていいだろう。こうした生徒や保護者と話し合うには、教師は、「心理」の専門家でなければつとまらないように思う。
自分で反省ができないと全く成長しないけれども、そのまま大人になってしまうと、誰かの保護下に入っていないと社会人として生活を維持していくことは困難だと思われる。被害妄想的な感覚を持っている人は、「バランス感覚」が極めてわるい。そのため、妥当な判断がまったくできない。とんでもない結論を自分で引き出している。
反省しない大人は、組織の中で上長からいくら指導されても、成長しないどころか、退化していく。こうした人は決して多くはないが、必ずいる。思い出す標語は、「下愚は移らず、君子は豹変す」である。自分を成長させるためには、ある程度のコンプレックスは、必須ではないだろうか。前にも述べたように、自己理解の最も有効な方法は、他者の意見を聞くことであるが、そのコミュニケーションが不能になっていると、その機会が失われてしまう。そうした人に限って、読書などは期待できない。本来は、旺盛で広範な読書によって、故人や偉人との対話をすることができれば、もっと深く自己理解をすることが可能なのだが、そんな機会は持てそうにない。「下愚」のまま老齢になっていくのであろうか。