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国家主義が目立つオリンピック

スポーツの基本は個人主義では片付けられない

「ロンドンオリンピックの柔道で、始めて日本人選手が一つも金メダルを獲得できなかった」と報道された。国ごとにメダル数が毎日テレビや新聞で報道されている。国家間で、金メダルの個数を競っているからだ。このニュースを聞いて、スポーツと個人主義の関係を考えさせられた。近代スポーツの基本は、スポーツ参加が共同体や国家のためでなく、参加する個人の健康や福祉、さらに楽しみにといった「個人主義」に置かれている。しかし、オリンピックのような大規模な国際的なスポーツの祭典となると、話は違うようだ。明らかに国家の威信や個人の意識を超えた使命が重視されている。

 特に、このロンドンオリンピックでは、北朝鮮の選手の活躍が目立ったが、こうした国や、中国なども懸命にオリンピックは「個人主義」ではなく「国家主義」または「全体主義」と考えるべきであろう。

 近代スポーツは、上の「個人主義」のほか、「平等主義」が重要とされている。だから、重量別の階級が用いられたり、プロとアマチュアの区別を重視しているのであろう。しかし、この「平等主義」も重視されなくなっている。

 個人主義ではなく、国家主義的なスポーツの性格は、「世界平和」に役立つと考えられる。プリミティブには人間は、闘争本能を持っているが、その闘争本能をスポーツで相当程度解消できれば、戦争の減少に寄与するのではないか。これが、ひょっとしたら古代オリンピックの発生の源点であり、近代オリンピックとして行われる理由ではないかと思う。そうなら、スポーツの「個人主義」は大きな修正をしなければならないであろう。一方で今、テレビで放映されている甲子園を目指す高校野球では、選手はもっぱらチームの勝利のために動き、個人の役割はチームの勝利のためには大きな犠牲が課されることがある。その典型が、「送りバント」や「犠牲フライ」である。従って高校野球は、学校自身またはその出身県という「共同体」のためのスポーツの典型であるといえるだろう。

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2012年08月05日 12:59に投稿されたエントリーのページです。

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