ある学習塾が、国語や英語の教科書を丸写ししたテキストを無断作製し、「完全自社オリジナル」として使用していたことが発覚したと新聞で報じられた。また、別の進学塾が教科書を約10年間も無断複製して使用していることが訴訟事件になっていることもニュースとなった。最近こうしたニュースが続いた。
著作権が足かせとなって犠牲が強いられる教科は国語であり、国語の教科書であるが、社会などの他教科の教科書も例外ではないようだ。著作権を主張するか否かは、著作権者により大きな格差がある。教科書だからという理由で、ほとんど無条件に認める著作権者と、たとえ教科書であっても権利として強く主張する権利者があり、問題集の作成やテスト問題の作成において、教科書の文章を問題集に取り込むことができないなどの困難な問題を呈している。
最近の中学国語の教科書では、著作者の死後50年以上が経過し、著作権が消滅したものがテキストとして使用されることが少なくなっている。しばしば指摘されるように、露伴は言うに及ばず、鴎外や漱石の作品は中学の教科書から姿を消してしまっている。読解がむずかしいという理由のようだ。高校の教科書では、高校一年生用の『国語一』には、漱石の『夢十夜』を唯一の例外として、漱石も鴎外も収録されていない。その代わりに現代の作家達による比較的読みやすい文章が教科書に採用されている。
私は、著作権が種々の問題を引き起こしていて、教育現場に多大な影響を及ぼしている現状を考えると、教科書製作会社が、独自のオリジナルの小説や説明文を書いて使用することを提案する。英語教科書の文章作成で行われていることを国語でも採用するだけである。教科書製作会社が自社に著作権が所属する文章を使用すれば、何も問題がないのではないだろうか。著作権が法人に帰属することが認められているからである。その際、文科省の教科書検定が問題になるかも知れないが、それは検定制度自体が悪癖なのである。この制度は今すぐに廃止しても良い程度に民度が向上していると思う。社会科の教科書を考えれば、検定制度がなければ、近隣諸国との関係がよくなるに違いない。教育と著作権の二つを重みで比較するとどちらが重要であろうか?