日本の主に中等教育のだめなポイントとして、「詰め込み教育」と「偏差値教育」がしばしば指摘されてきた。そのうちの一つ「偏差値教育」とはどんな意味か。そのどこが批判されたのか。「偏差値教育」という語の意味するところは、それぞれの評論家により一定ではないようだ。最初この言葉は、業者テストに対する行政側の反感から、これを排除しようとして用いられたと私は思っている。「偏差値」自体は、ある数値が母集団の中でどれくらいの位置にいるかを表した数字にすぎない。数値が平均値に等しいときは偏差値は50になり、40から60の間に約68.3%、30から70の間に約95.4%入ると言った本来は優れた指標である。これ自体は良くも悪くもない。
たしかに、学校の現場でこの偏差値を成績処理に使用する場合を考えると、実際には標本数がすくなくて適切な偏差値を算出することはむずかしいことが多いであろう。また仮に標本数が十分であっても、実際のテストでは分布のヤマが2箇所ある場合など、正規分布と大きく異なり、適切な指標とはなりにくいと考えられる。
しかし、偏差値教育として批判されたのはそうした偏差値の指標的な不適格さではない。偏差値追放が叫ばれたのは、むしろ「業者テスト」といわれる種々のテスト自体を行政としては、極力排斥したかったことにある。偏差値自体は上記のように指標としての制約があるが、結構良い指標である。では、「偏差値教育」の名で批判される教育とはどんなことを指すのか。
私は、偏差値を過大に評価して行われていた学校等の進路指導等に問題があったと思っている。偏差値による生徒の厳格な「格付け」と「選別」が人間性や本来の能力を無視して過大に重要視され、偏差値により「輪切りにされ」て指定された高校なりへ進学するように指導されたことであろう。当時は親子とも批判力を無くして、その進路指導に盲目的に従った。そうした時期はかなり長く続いた。そのため生徒も冒険心やチャレンジ精神を亡くしてしまった。この教育が問題だという意味であろう。そうした意味で、偏差値教育という表現により問題を提起する場合なら理解できる。 確かに、テスト自体は人間の能力の一部を表すに過ぎない。チャレンジ精神やフロンティア精神を無くすような教育は避けなけらばならない。