「自律型学習方法の満点教室はどんどん先へ行ける。小学生で微積の学習も夢でない。学歴社会に穴を開けるような、業績を残す人が生まれることを期待する」こんなこと思いながら、私は、これは教育論に行き着くなと感じた。
教育については、誰でも評論家になれるようだ。また、自らの教育論を実践するために、自身も私塾を立ち上げて教育に携わる人の話も聞く。大学の教授や、作家などで教育に関心のある人が実践される場合がある。
そうした人たちの教育論も極めて多岐にわたる。その第一は、もっぱら現状の枠内で考えている場合である。我々のように私塾の運営者は、いかに成績を伸ばし、第一志望校合格を目指すかと言った枠内である。これを少し超えた視点での評論も少なくない。その典型的な例は、学力低下論とかその否定論または、入学式等での国歌斉唱、起立に関連する評論、だめ教師の発見方法とトレーニング方法、モンスターペアレント対策等である。大学の秋入学への移行への議論もこの枠内と思われる。教科書の検定制度に対する批判ももこのレベルである。
さらに、高所から教育を論ずる場合もある。受験競争とか、教科書の検定制度など現状を超えて、一気に、アインシュタインに匹敵するような業績を残す学者とか、実業界では革新的なスティーブジョブズ氏のような逸材を出現させる為の教育論である。インドなど優秀なIT技術者を多数排出させる為の教育システムを論ずる場合などの議論はその間にあるだろう。どの辺に自分の目線を置いて議論するかで、議論が多岐にわたり、時にはかみ合わないことも生ずる。
その目線の置き方が自由だと言うことは、誰でも教育論は論じられる理由である。まるで、「目線の高さ」というレベーターに乗って1階から最上階まで乗ったり下りたしながら、この問題を考えることがあるが、普段は一番下の1階に目線を置いて、つまり現状の教育環境の枠内で成績を上げること、志望校に合格すること、などを中心に考え、腐心している。もちろんそのようにしながらも、将来のアインシュタインを殺さないようにしなければならないことに、十分注意しなければならないと思っている。