北方ANNEXで小学校の父母会を行った。算数、国語、英語の指導方法について1時間にわたり説明した。主に現在、新たに取りくみ始めた指導メソッドについて説明した。保護者の多くは、配布した資料にアンダーラインを引きながら聞いていただいているのを見て、ぼくもありがたい気がした。
小学生対象の授業には、先生の元気さが求められる。元気が足りないと、つまらない座学のみになっていく。体を動かす事が勉強には必要である。全身を動かしながら、勉強する。先生も大声を出し、立って動き回りながら指導する。これができないと、勉強は効果が上がらない。英語指導メソッドの一つである「TPR」はその典型であろう。特に英語の指導に対しては、指導者用のマニュアルを整備しても、先生の個人差がすぐにでてしまう。それぞれの先生が、自分流に変形してしまう傾向が強いのだ。理想的な指導者を求めることは容易ではないように思われる。
英語の授業に対しては、小中高どの学年に対しても、「英語で指導する」ことが求められるにもかかわらず、先生によっては英語を使用することが少なすぎる先生がいる。どうしてそうなるのか?理由の一つは、英語をで話す際に、日本人独特の「気恥ずかしさ」を感じるためっではないだろうか。そうした先生は、英語と日本語のバランスが極めて悪い。英語の授業なのに、圧倒的に日本語が多いのだ。英語の細かいことを話題にした国語の授業のようになっている。また特に英語が得意でない生徒に限り、そんな話をよろこでくれるから始末が悪い。しかし、それでは英語力が付かないし、英語の成績も上がらない。
英語の教師であっても、英語を使用すること特に英語らしい発音で話すことがキザっぽい気がして「恥ずかしさ」を感じるようだ。私はそのため、社員の初任者研修時に徹底的にそうした日本人独特の感覚を取り除くように指導している。「英語はキザっぽくしゃべりなさい」というのが口癖である。実際、韓国人やインド人やマレーシャの人にはそんな感覚は全くない。いったいどうして一部の日本人に、そうした感覚が養われたのだろう。考えてみると、これまで日本は、日本の国の中だけで十分な市場と労働力の確保ができ、学問研究で外国の知識を導入するには、訳読さえできれば十分であった。その期間が長かったためでないだろうか。現在ではもう既に、リンガフランカとして英語が必須となっており、おそらく日本人の約1割は英語で活躍する時代になっている。