今朝は、瀬戸内寂聴さんの青空説法をテレビでみた。寂聴さんは東北の惨状をテレビで見てその被害の大きさに衝撃を受け、それまでしばらく病でベッドに伏せっていたが、突然復活したのだと聞いた。そして中断していた岩手県の天台寺名物「青空説法」を再開されたのだそうだ。ぼくも若い頃、寂聴さんが出家をされて間もないころ、説法を直接聞いたことがある。
天台寺の庭は、聴衆であふれていた。寂聴さんの説法は、一方的に話すのでなく聴衆の数名に順次質問をして、発言させてその話に対する感想や慰めになるような話をするスタイルであった。そうした時間と、寂聴さんが全員に説法をする時間がサンドイッチのように組み合わされている。だから話が具体的で分かりやすく、一人ひとりの心にしみるような構成になっている。
私は寂聴さんの話を聞きながら、根っからの悪人はほとんどおらず、普段はほとんど善人ばかりであるが、その善人がおかれている環境がある状況になったとき、善人ではなくなり自分勝手となり見苦しくなるのだという当たり前のことを思って聞いた。寂聴さんの話を聞きながら、ぼくは漱石の「こころ」思い、そして何かにつけその内容を反芻している。
宗教は、本来人を勇気づけ、安心させ、良心的にさせ、勇敢にし、また勤勉にもさせる。宗教心は人間にとって実に有意義だと思う。しかし、その宗教が反社会的となることもあるのだ。 宗教が人間の幸福に反するようになるのは、その宗教の主義が「唯一絶対的な宗教」を宗旨とするものであって、その他の宗教は全て「邪教」として攻撃する場合である。そうした宗教は、世界の平和と人々の幸福に反することになる。仏教もキリスト教もイスラム教もその他どんな宗教もみんなとてもありがたい、というような一種の宗教があれば、その宗教が一番いい宗教だと思う。仏教はその点でありがたいと思う。