勉強はしばしばスポーツの練習に比較される。特に受験勉強は、しばしばマラソンにたとえられる。実際、私たち教師の仕事は、スポーツ選手のトレーナーの役割と言うことができるであろう。
教師の仕事として、教科の授業は大切である。勉強法の説明はもっと大切といえるだろう。間違った勉強法を先生のアドバイスによって修正することも重要である。しかし、生徒の進路指導をしていると、勉強法やテキストのできばえよりも、勉強時間を十分取ることの方がもっと大切であることを実感する。勉強時間が少なすぎることが問題なのだ。教師としては、どうやって十分な勉強時間を取らせられるかが問題である。確かに効率のよい勉強法はあるが、実際の競争ではしゃにむにがんばる人が勝つのだ。
この勉強時間自体を十分取ることがなかなかできないという生徒は何が問題なのか。すぐ勉強に取りかかれない原因としては、テレビ、インターネット、さらにケイタイ電話などがあるだろう。「テレビを何となく見てしまう」とか、「何となく無駄にネットサーフィンなどやってしまう」などといった時間の管理が問題なのだろう。
スポーツ選手や、脳科学の分野の人たちから、身体のリミッターと脳のリミッターの話をしばしば聞く。その要点をまとめると次のようなことであろう。
- 「人体が普段出している力は本来の力の一部であり、全力を出すことを制限するようになっている。筋肉が持つ力をすべて使った場合、人体そのものが壊れてしまう恐れがあるからだ。これが、「身体のリミッター」である。実際には、普段は脳がどれくらいの力を出すか制御している。これが「脳のリミッター」である。身体のリミッターと脳のリミッターを比較すると、脳のリミッターの方が先に働くようになっている。脳のリミッターが先に働いて身体を保護する仕組みなのだ」
そこで、スポーツ選手はその先に来る脳のリミッターを外すように訓練をするのだそうだ。そうしたこともしばしば聞く。そんなことを考えるのは、スポーツ選手でも最高レベルの競技者の場合であろう。 勉強や仕事で、「私はもういっぱいいっぱいやっています」などと言うのを聞くことがある。この場合は脳のリミッターとしてどの程度なのだろうか。おそらく本当の身体のリミッターの1割未満ではないだろうか。訓練されたスポーツ選手の場合、脳のリミッターを外し、身体の本当の限界に挑んでいる姿をぼくらはオリンピックのような世界最高レベルの競技で見ることができる。「もうめいっぱいやっています」などと簡単にいう人は、自分はそう思っているのであろうが、実際は、ぼくはその人の怠慢さを感じるのみである。また、練習によって身体と脳のリミッター自体を両方とも上方へ移動することが可能なように思われる。実際、受験勉強を経験すると、明らかにそれ以前と以後で、人はすこし変わるのである。