8月15日の終戦記念日に政府主催により、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式での安倍首相の挨拶が、中日新聞に掲載された。【「不戦」「反省」置き去り-69回目終戦の日】がその見出しである。千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花し、手を合わせる人たちの大きなカラー写真も載せられている。
その式典での式辞で安倍晋三首相は、「今日は平和への誓いを新たにする日」と述べたが、歴代首相が盛り込んできた「アジアへの加害」と「反省」については、昨年に続き今年も言及せず、同様に「不戦の誓い」との表現も使わなかった。集団的自衛権行使容認の閣議決定は、看過できない不安な要素であるおり、不安感を持つ人も少なくないと思われる。 ところで、僕の長年の疑問であったポイントについて考えてみたい。その疑問とは、人々の思想傾向や宗教的な傾向が、どのようにして生まれてくるのかということだ。
左派とは右派といった区別もあり、宗教では一神教や多神教また、無神論者まで全く多様である。
安倍首相の思想傾向は、反戦論者と本当にいえるのかが疑問に思われる。
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ではそうした、思想傾向はいつどのようにして個人に生まれるのであろうか。また一生を通じて変わることはないのであろうか。これは極めて根源的な疑問だ。そう簡単に答えが見つかるとは思っていない。これまでそんな疑問に直接答えようとした論者もいないであろう。見たことも聞いたこともない。
私は、最初は鉛筆をとがった方を下にして立てる様なものだと思っている。おそらく最初は、誰かの影響によって偶発的に右か左に傾いて倒れる。これは真球の上に置いたものが不安定さによって、どちらかに落ち始めるのに似ている。とどまってはいられないからだ。
最初の傾向はわずかであってもその傾向は、新たな情報を受け取るとき、右なら右の、そして左なら左の傾向を強める方向へのバイアスとして働く。そうするとますますのその傾向が強まる方向への親和性ができて、傾向が顕著になっていく。
さらに、その後は新たな情報を受け取るとき、その情報の受け取り方にスクリーニングができて、自分の傾向に反する情報はカットされ縮小される。逆に強める情報は、拡大されていく。「南京大虐殺」で虐殺された中国人の人数などはその典型であろう。 このようにして一旦固まった思想的な傾向や宗教的な傾向は、ますます顕著になっていくのだろう。そうなると、次には同じ傾向を持つ人たちが徒党を組むことになり、お互いに補強し合うことになる。安倍総理には果たして韓国人や中国人の友人はいるのであろうか。日本人の友人と同じように親しい親友と呼べるような韓国人の友達ができることを願う。